
ヴィヴィッドな信仰に必要な「交わり」の話
「わたし、クリスチャンなんだけど、教会には行ってないんです」
「神様は好き。でも、宗教的な場所や集団はちょっと苦手で…」
そんな声を、わたしはこれまでにたくさん聞いてきました。
もしかすると、あなたもそうかもしれません。
それに対して、わたしの答えはこうです。
「建物の教会に行かない信仰」は、アリです。
でも、「誰とも交わらない信仰」は…ナシ!(ハッキリ言っちゃうぞ)
イエス様の時代、“教会”という建物はまだありませんでした。
信じる者たちは家に集まり、道端で祈り、野原でパンを裂いて、
生きた信仰の交わりを育てていました。
聖書の中で「教会」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「エクレシア」。
“呼び集められた人たち”という意味があります。
つまり、教会とは本来、建物や組織ではなく、神さまと人々の“つながり”のことなんです。
でも、ひとり心の中で信じていると、自分が信じているかどうかさえ、見失いそうになる時、ありませんか?
孤独の中で、祈ることさえできなくなることもあるでしょう。
そして、交わりが絶たれると、霊的な“いのちの流れ”も滞ってしまう。
信仰は、“ひとりで保つ”ようには設計されていません。
それはまるで、心臓の拍動のようなもの。
血液が絶え間なく、全身の細胞に酸素を流しているように、
キリストのからだの細胞である、他の誰かとの間に、愛や祈りが流れ続けている時、
信仰はヴィヴィッドに、いのちあるものとして輝くのです。
溜め池の水は濁ってしまうけど、
こんこんと湧き出る泉の水は、いつも新鮮で、美味しい。
霊のいのちも同じ。交わりがあるところに、泉のような恵みが湧いてくる。
イエス様は、こう語られました。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。
――マタイ18:20
もちろん、ひとりで心を注ぎ出す祈りも、ちゃんと届いています。
でも、二人、三人で共に祈るときに感じる霊の流れや、
祈りが聞かれているという確かな感覚には、格別のものがある。
そして――
わたしが強く伝えたいことが、もうひとつあります。
目に見えない神様に愛されているという確信は、とても大切。
でも、人に愛される恵みも、同じくらい、味わわなくっちゃ!!
聖書には、イエス様のことをこう記した箇所があります。
幼子(イエス)は成長し…神の恵みがその上にあった。 ルカ2:40
イエスは神と人とに愛された。 ルカ2:5
神との交わりと、人との交わり。
この二つが同時に満たされている時、人は「恵まれている」ことを肌で実感できるのじゃないかな、って思うんです。
たしかに、人との関係は、ときに痛みを伴います。
距離が近すぎて傷ついたり、裏切られたり、失望したり。
それでも、目に見える、肌に触れられる距離の
「人にも愛されたい」と願うことを、どうか諦めないでほしい。
それはとても自然なことだし、
何より、神様であるイエス様が人となられたのは、
目に見えない神の愛が“体温を持った血の通ったかたち”で伝わるようにするためだったからです。
そして、愛された恵みの実感が、いつしか満杯に溢れて流れ出した時、
それは「人を愛する」行動をしたいという願いに変わるでしょう。
イエス様はこう言いました。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得て、それを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)
天国切符な概念としてのいのちを得るだけではなく、
“豊かに”持つため。
その“豊かさ”を味わう道の歩み方はいろいろあるけど、
一つには、神とつながり、神を真ん中にして人と交わることは、
結構重要なキーポイントだと思うんです。
わたしは、建物としての教会には通っていません。
でも、共に祈り、語り合い、神様の愛を一緒に感じられる仲間がたくさんいます。
そして、
“会いに行くシスター”として、
交わりを必要としている誰かと、日々向かい合っています。
自分の内側に宿るイエス様が、目の前の人をめちゃくちゃ愛してることを、
全身で感じながら、お相手の方とお話をさせていただく時――
わたし、めちゃくちゃヴィヴィッドです!
もしあなたが今、信じてはいるけど孤独を感じているなら、安心してください。
あなたの信仰は、イエス様に守られているから、決して無くなることはありません。
でもそこに、ほんの少しの「交わり」が加わったとき――
ヴィヴィッドな、いのちあふれる豊かさの味わいが始まります。
もしもあなたが一度イエス様を信じた方ならば、
クリスチャンライフは、ヴィヴィッドに生きましょ!
どうぞいつでもわたしを、呼びつけちゃってください。
イエス様を一緒に味わい尽くして、お互いにヴィヴィッドになろうじゃありませんか!