
――Faith(信仰)の本当の置き場所を考えてみる
まだ「自分を信じて」消耗しているの?
これは、一時期、わたしがTwitterのヘッダーに画像設定していた煽り(?)メッセージですw
(元ネタは、「まだ東京で消耗してるの?」)
人はみんな、何かを信じて生きています。
「神など信じない」と豪語する人は、
「神はいない」ということを信じているし、
失恋直後で「もう誰も信じられない」と嘆く人は、
「世の中には信頼に足る人など存在しない」ということを信じています。
存在しないことの証明(悪魔の証明)はできませんから、これはちょっとした信仰の世界。
明日が今日と変わらず平穏にやってくる保証なんてないけれど、
わたしたちは、明日も変わらない日常が当たり前にやって来ると信じて、
今週の食事のメニューの計画を立てたり、誰かとの会合の約束をスケジューリングしたりします。
信じる、という行為は、
案外、何かの宗教やイデオロギーに限定されるものではなく、
人が生きることそのものに内在しているのです。
自分を信じるのも、悪くはないけれど
「自分を信じる」という言葉は、
前向きで、強くて、自立的なイメージを持って語られます。
確かにそれも大切。
自己肯定感を育てることも必要だし、
努力を重ねてきた自分を信じる力も、美しいものです。
でも――
人間は限界を持った存在です。
- 肉体は衰える。
- 心は存外にもろく、傷つきやすい。
- 財産は、いつまでもあるとは限らない。
- 形あるものは皆うつろい、滅びる。
信じた「自分自身」の限界に直面する時、
その「信じる」は容易に絶望に変わってしまいます。
では、何を信じればいい?
まだ見ぬ未来、まだ実現していないこと。
それでも「信じられる」人は、強いでしょう?
そういう人は、まだ実現していないことでも、
あたかも既にハッキリと見えているかのように行動できてしまうからです。
「信仰」という言葉を使うと、途端に宗教臭く感じる人もいると思うけど、
コレこそ要は、素朴な期待と信頼=Faithです。
聖書にはこうあります。
「信仰は望んでいることを保証し、
見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)
まだ見ぬ不確かな未来を強く信じる秘訣は、「自分を信じる」ことではありません。
「自分が、自分以上の存在によってデザインされている」
ということを信じることです。
わたしは、自分の完成図を知っている方――
創造主なる神が、自分という作品を愛し、完成へと導いてくれることを信じています。
エペソ人への手紙には、こう書かれています。
「私たちは神の作品です。」(エペソ2:10)
「作品」という言葉の原語は、ポイエマ(ποίημα)。
詩、芸術作品、という意味を含みます。
あなたは、偶然にできた部品の組み合わせじゃない。
意味のあるストーリーをもって創造された、詩のような存在。
だから、もし今、
「自分を信じなきゃ」と思って疲れている人がいたら――
こう伝えたいです。
あなたが疲れてしまったその信じ方を、
そっと横に置いてみても、大丈夫です。
あなたという作品の完成図は、
あなた自身ではなく、デザイナーである神が持っているから。
あなたが見失っても、神はあなたを見失わない。
それが、わたしが固く握っている「Faith」の実態です。
どうかあなたが、不安や恐れに支配されず、
既に完成された神のブループリントに沿って満開に花開く時を、
楽しみに待ち望むような、安心して歩める道に、歩めますように。
神の恵みは、いつでも、どこでも、あなたを取り囲んでいます。