
アフェシス(解放)としての福音と、開かれた牢屋から出られない人たちへ
最近、こんなことをよく思います。
「あなたの聞いた福音・・それ、本当に“福音”してますか??」
福音、という言葉はキリスト教用語ですが、
英語で言えば“Good News”
ギリシャ語では「エウアンゲリオン」――
直訳すれば、「良い知らせ」です。
(ちなみに英語のGospelも同じ意味。本来は歌のジャンル名じゃなく、福音、という意味だよ)
イエス様は、復活後、天に昇る前に弟子たちに言われました。
全世界に出ていき、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)
キリスト教会とは、この命令に従い、福音、つまり良い知らせが語られる場所・・・のはずです。
しかーし!キリスト教会で聞いた種々の”お知らせ”が、
ぜーんぜん“良いお知らせ”になってない方、多すぎません??
「頑張らなきゃ」
「こうしなきゃ救われない」
「戒めを守れていないから祝福されない」
「信仰が足りないから問題が解決しない、病気が癒やされない」
そんな風に感じてしまうという、心の苦しさを打ち明けてくださる方が大変多く・・・
いやいや感じてしまうどころか、実際ダイレクトに聞かされちゃったよ、というお話すら、とーってもたくさんいただくのです・・・。
それってもはや良いお知らせじゃなくて、不幸の手紙では・・・(汗)
聖書の中で、わたしが「これこそ福音の本質だ!」と感じるキーワードがあります。
それが、ルカの福音書に出てくるギリシャ語「アフェシス(aphesis)」。
この言葉には、
- 赦し
- 解放
- 自由
- 放免
- 手放し
という意味が込められています。
イエス様がナザレの会堂で語った、最初のメッセージ。
「囚人には赦し(アフェシス)を、
圧迫されている人を自由にし…」(ルカ4:18)
ここで言われているのは、
「罪を赦してあげるよ」という上から目線の話じゃない。
むしろ、
囚われていた人を解き放ち、
心を縛っていた縄を断ち切り、
堂々と外へ歩き出せるようにする。
それが、イエス様が語った「良い知らせ=福音」の本質です。
でも、悲しいことに今の教会にはこういう人が多い。
開かれた牢屋の中に、
座り込んで出ようとしないクリスチャンたち。
もう赦されてる。無罪宣告もされてる。
でも、そこから出る勇気がない。
「自分は出てはいけない存在だ」と信じ込んでる。
子象を小さい頃に杭とロープで繋いでおくと、
成長して大人になって、
そのロープなんか簡単に引きちぎれる力があっても、
もう逃げようとしない――
まさに、そんな感じ。
“もう自由なんだよ?”って言っても、
“いや、私はここにいるべきなんです”と信じている。
それはまるで、解放宣言の福音を「信じたはず」なのに、
福音の中身が「束縛と自己否定」になってしまっている状態。
そしてもうひとつ。
そんな人たちを見て、「立ち上がって堂々と歩きなさい」と声をかけるどころか――
「そこにいなさい」「出たら裁かれるよ」と言う牧師や教会もある。
それ、マジでパリサイ魂ですから・・・!!!
律法で縛りつけて、
福音を“恐れの宗教”に変えてしまう。
パウロがガラテヤ人に対してガチギレしてたのは、まさにこれなんです。
「もし私たち、あるいは天からの御使いであっても、
私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反する福音を宣べ伝えるなら、
のろわれるべきです!」(ガラテヤ1:8)
福音に見せかけた、別のものを信じさせている。
本当は――
福音って、
縛るためのものじゃなくて、
解き放つためのものでしょ?
もし、今あなたが、
「信じているのに、なぜか苦しい」
「もっと頑張らなきゃ、って思ってしまう」
「教会に行くたび、責められているような気がする」
そんな風に感じているなら――
もしかしたら、
「福音が福音していない」状態かもしれません。
つまり解放宣言が、あなたの主観的実体験として、実体化してない、ということ。
でも、大丈夫。
扉は、もう開いています。
鎖も切られています。
あなたは、もう赦されています。
アフェシスの中に、います。
今こそ、
その牢屋を出て、光の中へ歩き出すときです。
あなたの中の福音が、
ちゃんと“福音する”ものでありますように。